松本民舞研の発足
 松本市の公立保育園に勤務する保育者たちが、子どもの「表現」について学ぶ研究会の中で一つの窓口として、民舞に出会ったのが1991年。
 当時、松本養護学校に勤務されていた松井敦先生から「津軽の荒馬」を教えて頂き、それぞれの保育現場で「荒馬」を子どもたちに手渡す。この時の子どもたちのめざましい変化が私たちの心を動かした。
 絵本やお話、描画、歌うこと、話すこと、そして話さないこと。表現という領域は多岐にわたるもので月1回の研究日は民舞だけに費やせない。研究収録の作成もしなくてはならない。そこで月に3回も会場予約を取り付けて民舞の習得に励んだ。しかし、公立保育園勤務ということは当然バックにお役所がついているわけで、「月に1回しか認められない」というクレームを頂戴することとあいなった。
 当時、この研究会の長をしていたのが現迦楼羅代表なのだが、何度かお役所に掛け合って、玉砕し、ならばと有志が集まって、1992年に「松本民舞研究会」を作った。

安藤政英氏との出合い
 松本民舞研究会としての活動が少しずつ世に知られるようになってきた頃、秋田の民族歌舞団「わらび座」で10年間舞台にたっていた人が一緒にやりたいと言っているという話があり、常に「来る者は拒まず、去る者は追わず」がモットーだから、「いつでもお気軽にどうぞ」なんて言ってしまった。
 「やあ、こんにちわ!」と、その人は爽やかな笑顔と、キビキビした動きで、それこそ颯爽とやって来た。そして「今何やってるんだって?御神楽か?」と言うなり、持って来た柳のバチで太鼓を叩き始めた。 (これって、なに?○×△!?) そのリズムが「御神楽」であることに気づくまでにかなりのタイムラグがあって、その場に居合わせた全員がポカッと口を開けていた。
 その日の稽古は今でもハッキリと思い出せる。2時間の稽古がこれほどきついとは。人体がいくつのパーツで成り立っているかよーく分かったくらい、体中のすべてが悲鳴を上げていた。稽古が終わり「ありがとうございました。」と言って彼を見送った後、しゃがみこんで動けなっかったのは言うまでもない。その日と翌日、私たちはしゃがむ事と立つ事に苦しんだ。この時ほど日本の洋式トイレの普及をありがたく思ったことはなかった。
 鬼のような稽古を強いた安藤政英氏を師匠と呼ぶようになって、稽古はどんどん厳しさを増していったのである。

迦楼羅の立ち上げ
 稽古が厳しくなればなるほど、民舞の楽しさ、踊る事によって開放される心地よさは深まり、鬼と思った師匠の稽古も辛くても付いていかれるようになり、ある日、ついに師匠に思いを告げた。「たくさんの人に見てもらいたいんです。外に出て踊りたいんです。」師匠はそんな願いを「10年早い!」と一笑に伏した。
 「今だってゼエゼエ、ハアーハアーの私たち。10年先なんてないも同じよ。」
気の強い女ばかりだから一歩も引かず、ついに私たちは松本民舞研究会の中に、別働隊という形で公演に出ていく集団を作ってしまった。1993年、民族舞踊集団「迦楼羅」の誕生である。